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御祭神解説はこちら → 《應神天応》 《神功皇后》 《武内宿禰命》 ・ 出典「Wikipedia」

【御由緒】

平塚八幡宮は古くは鶴峯山八幡宮と称えられ、仁徳天皇の68年、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが創祀です。

その後、推古天皇の御代にも大地震があり、人々を案じられた天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営し、さらに天武天皇はこの地の税を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納されました。

その頃、寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊を戴いて岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として鎮座されました。鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した等、武人の信仰も篤く、特に徳川家康公は社領を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、伊奈備前守忠次へ命じて社殿を再建されました。

江戸期になると、平塚は日本橋から数えて8番目の宿場として賑わい、特に門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展し、旅人は道中の安全を祈り社頭は大いに栄えました。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅鳥居を奉献、奉賛者名は今も鳥居に刻まれ現在でも二の鳥居として境内にそびえています。

大政奉還の後、官の達示により社名を「八幡神社」と改称しましたが、平塚の街は海軍火薬工廠の建設などによって、商業、工業として成長し、明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王がご参拝にり、社頭に松樹をお手植えされ、御神池に緋鯉を放生されました。
大正12年、関東大震災に見舞われ、被害は甚大で御社殿も崩壊しましたが、氏子、崇敬者の尽力のもと街の再建とともに昭和3年に再建されました。
大東亜戦争後には神社本庁が包括する別表神社となり、空襲によって大きな傷跡を残した平塚の街も、全国に名高い「七夕まつり」を開催出来る程に復興し、昭和53年8月には現在の社名である「平塚八幡宮」へ改称しました。

現在でも平塚八幡宮は、應神天皇神功皇后武内宿禰を御祭神に、相模國一國一社八幡宮として、また鎮地大神と仰がれ、数多の方がご参拝になっています。

8月15日の例大祭、5月5日に斎行される1000年余の歴史を持つ國府祭(こうのまち)、9月中旬に行われる「ぼんぼり祭」等、平塚八幡宮の鎮守の杜は、信仰、歴史、文化の交わる場としてとして、また、心の故郷、憩いの杜として護り継がれています。


相模國一国一社平恃ェ幡宮

【神社概要】

平恃ェ幡宮・境内絵図 鶴丸紋
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