初宮 安産 厄除 家内安全 商売繁昌 交通安全 芸能上達他
応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
武内宿禰(たけのうちのすくね)
平塚八幡宮は、仁徳天皇の御代68年(380年)、この地に大変大きな地震があり、人々の苦しむ様を見かねた仁徳天皇(第16代)が社を建てられたことが創祀とされています。
その後も相模國一國一社の八幡宮として、歴代の天皇や源頼朝公をはじめとする武士からも崇敬を集めます。
特に御朱印に揮毫する「鎮地大神」は、推古天皇(第33代)より賜った御宸筆から戴いております。
このように、数多の崇敬を集める神社でありましたが、戦国時代になると兵火に遭い、御社殿をはじめ社宝、社伝記はことごとく灰塵に帰してしまいます。
そのような中、徳川家康公は江戸に入府すると、荒廃していた平塚八幡宮の御社殿を復興させました。
江戸時代になると、平塚八幡宮は東西に東海道が通り、集積港であった須賀への道、そして厚木、大山への道が交わる交通の要衝となり、門前はとても栄え、門前町の大門通は平塚商業発祥の地と言われています。
明治以降も、神社北側に開設された海軍火薬廠によって平塚の街はさらに大きく発展しました。
大正12年(1923年)の関東大震災で社殿は倒壊し、現在の社殿は昭和3年(1928年)に竣工しました。
戦後は平塚市七夕まつりをはじめ、町の平和と発展とともに神社は平塚の人々や街と関わりのある人々からも篤く崇敬されました。
平塚市の市制50周年の記念として、岐阜県高山市と友好都市となりましたが、これは寛治元年(1087年)に平塚八幡宮の御分霊が、高山市に祀られたことに由来します。
このような由緒をもつ平塚八幡宮の大神様の御神徳は、鎮地大神に表されるように、私たちの力では解決することの出来ない大きな災厄から身を守り、傷ついた心身を癒し、前へ進む力を与えてくださることといわれています。
平塚八幡宮 境内絵図